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開催報告
開催日 | 2015年04月14日(火)開場18:30 開始:19:00~21:00 |
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場 所 | ダイヤモンド社 9階会議室 |
会 費 | \2,000(軽食費込) |
テーマ | 起業という生き方の選択~学生起業家32年の軌跡とこれから |
講 師 | 株式会社コスモピア 代表取締役 田子みどり |
参加者 | 25名 |
セミナーの模様
4月7日のキャリア研究会は「起業という生き方の選択~学生起業家32年の軌跡とこれから」と題して株式会社コスモピア代表取締役・田子みどりさんのお話を聞きました。
松陰先生の志をもって
田子みどりさんは1960年、山口県萩市生まれ。萩市は人口5万人ほどの小さな街ですが、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で話題の吉田松陰を生んだ地。萩の人たちは「松陰先生」と必ず「先生」をつけて呼び、今も深い尊敬の念をいだいているそうです。小学校では1年生から『松陰読本』という副読本で学び、松陰先生の言葉を朗誦するのだそうです。ドラマの中でも「君の志は何ですか」と常に問いかけているように、志をもつことの大切さを学んだ原点が萩にある、と田子さんはおっしゃいます。
お母様は教師として仕事と家庭を両立されていたそうですが、雇用機会均等法以前の時代、女性が続けていける職業は学校の先生か看護師くらいしか選択肢がないように思えたそうです。そこで大学進学時に田子さんは「東京に行けば可能性が広がるのではないか」と東京の大学に進みました。
大学2年のとき、ただ大学で勉強するだけでは可能性は広がらないと企画会社でアルバイトを始め、イベントの企画書を書くなどの修業をしました。田子さんは文学を専攻、卒論は『源氏物語』という文系ですが、アルバイト仲間の理系の女子学生との発想の違いに驚き、理系の難しい話を分かりやすく伝えるというアイデアが生まれました。企画会社の後押しもあって大学4年の1982年、科学タレントチーム「ザ・コスモス」が誕生します。当時、ベストセラーになったカール・セーガン著『コスモス』がチーム名の由来です。そして、このチームで「ニューメディアを一般の人にわかりやすく伝える」イベントを経団連で行いました。
キツかった20代、仕事が面白くなった30代
当初は大学を卒業したらチームは解散するつもりでしたが、均等法以前のことで就職口もなく、仕事のオファーも入ってきていることから1983年、「コスモピア」として起業に至ります。当時は85年のつくば科学万博に向け、一般の人たちの科学に対する関心が高まると同時に、「女子大生ブーム」でもあり、「女子大生社長」として雑誌に紹介されたりもしました。ちなみに均等法の施行は1986年のことでした。
80年代後半はバブル経済の絶頂期でしたから、全国を回ってセミナーを行うなど多忙を極め、「なんでこんなに忙しいの、会社経営で大変な思いをしなきゃいけないの」とストレスが溜まる状況だったといいます。「結婚だけはするぞ」と86年に結婚、翌年26歳で出産、お父様が亡くなり一人暮らしになっていたお母様を萩から呼び寄せ育児を担ってもらいますが、会社経営は順調ながら家庭経営はうまくいかず、90年に離婚。ほぼ同時期にバブル崩壊で経営状態も悪くなり、それとともに社内の人間関係も悪くなって内部分裂の危機に。「もうやめようか」と思いましたが、ついてきてくれる社員もいる、取引先もがんばれと言ってくださる、さらに「家事は自分がやるからお前は仕事をしろ」と言ってくれる男性と32歳で再婚、30代になって本当に仕事が面白くなったそうです。
自分の中で言っていることとやっていることが一致する実感が得られ、周囲も「若い女の子が社長をやっている」という好奇の目で見なくなり、ようやくひとりの経営者として扱われるようになりました。
こうして「科学技術と社会のコミュニケーターをめざして」というミッションのもと、ITの導入支援、ユーザーサポート業務、ショールーム等の案内業務、IT関連のテキストや子どものための科学教育図書の制作など、業容を拡大してこられました。
上場を検討するが……
2000年代前半、会社が20周年を迎え田子さんは上場を検討したことがありました。いくつかの大企業から少しずつですが出資を受けており、株主にお返しするには公開すべきではないかと考えたからです。しかし、ある出資企業の社長から「公開するだけがゴールじゃないよ。社員や取引先がどうしたら一番幸せになれるのか、よく考えて」とアドバイスされました。また、上場のために入ってもらったコンサルタントからは「社長は年間4000時間働け」と言われ、世の中が2000時間労働から1800時間労働に移行しようとしているときにベンチャーの社長だからといってそこまではムリと思ったそうです。結局、女性ばかりでみな子持ち、ガシガシは働けない会社に上場は向かないとやめました。
そこで順調に出ていた利益を新規事業に投資し、台湾茶の喫茶店を開きました。そのころ身の回りに心を病んでいる人が多いことを実感し、そんな人たちがホッとできる場を提供したいと思ったからだそうです。しかし、2年で撤退、結婚と同じで始めるのは簡単だけどやめるのは辛いもの、がっかりしているところにリーマンショックが起こり、早く撤退してよかったと胸をなでおろすことでもありました。
この経験から本業と離れた新規事業はすべきでないと学び、田子さん自身の志向が「場をつくり、人をつなぐ」ことにあると気づくきっかけともなったようです。
今、そしてこれから
現在、コスモピアで仕事をする人は登録ベースで約1000人、そのうち稼働しているのが約100人、正社員20人です。正社員は全員女性でしたが、ショールームの現場で先端機器の説明を担う契約社員の男性が正社員になることが決まり、「わが社にもついにダイバーシティが!」と笑う田子さん。
2011年の東日本大震災を機に、何があっても会社が継続できる状態にしておかなければと、オフィスのペーパーレス化、フリーアドレス化(社長もデスクを持たない徹底ぶり!)、クラウド導入を進めました。IT環境の整備によりスキルアップが容易になり、テレワークで仕事をする女性たちの収入も上がってワークライフバランスが実現するというビジョンを描いています。コスモピアという場に集まってきた人が楽しく働けて社会の役に立つように、と会社としてのブランディングも考え始めています。
田子さんは社外でもニュービジネス協議会理事やNPO法人の事務局長など、数多くの役職を務めておられますが、原点である萩への思いが強く、東京に売り込むだけでなく地方同士をつなぐことはできないかと、東京から故郷を応援する活動に取り組んでいます。「萩に行ってみたい」という方のためにツアーも組みます。山口県の女性の創業支援のプログラム作りにも協力、テレワークの可能性を伝えています。
また、東京オリンピックを意識して日本クロスカルチュラルコミュニケ―ション協会(JACCA)を設立、異文化コミュニケーションのためのコンシェルジェ育成を目指しています。これは東京だけでなく、萩をはじめとした地方を訪れる外国人に、日本のよいところを伝える人が各地にいればよいという考えから活動を始めたばかりですが、理系と文系の異文化コミュニケーションから始まった本業とも近く、これから面白くなりそうです。
「志と至誠をもって生きれば、きっと生きていてよかったと思える何かをのこせるのではないか」と松陰先生の言葉を引いてしめくくられた田子さん、柔らかなお話しぶりですが、様々な困難に遭いながら、その都度学んで進んでこられた32年の歩みに深い感銘を受けました。そして萩の魅力を伝える写真とお話に、ぜひ行ってみたいと思いました。(K.S.記)
受講者の声
- 均等法前の状況をなつかしく思い出しながらお聞きしていました。松陰先生の言葉を礎に志を貫き、かつ柔軟に広く活動をされている姿に敬服いたしました。
- 学生での起業とのことで、とてもパワフルで楽しくお話しを伺わせていただきました。女性だけの社員の関係性なのに、とても楽しそうな職場で貴重なお話でした。
- 仕事柄、起業にかかわることも多いのですが、30年以上続けておられる経験は大変興味深かったです。また、新しい目標を立てて前向きな姿勢をお持ちなので、その姿勢に力付けられました。
(アンケートより抜粋)
※講師の方の所属及び役職は、開催当時のものです。(敬称略)
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