キャリア研究会:女性のためのネットワーク作り

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自らを少しでも高めたい、仕事と家庭を両立したい、そんな女性たちにネットワーク作りの場を。キャリア研究会

活動履歴

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開催報告

開催日 2014年10月28日(火)開場18:30 開始:19:00~21:00
場 所ダイヤモンド社 9階会議室
会 費\2,000(軽食費込)
テーマなぜ日本のフィギュアスケートは強くなったのか
講 師株式会社ジョビア 代表取締役会長 吉備カヨ
参加者 21名

 

セミナーの模様

10月28日のセミナー講師には、株式会社ジョビア 代表取締役会長 吉備カヨさんをお迎えしました。

人材サービス業を営む吉備さんは、一男二女の母でもあり、元横浜市教育委員、現在は横浜市体育協会理事を務められるなど、幅広くご活躍中です。
実は吉備さん、元フィギュアスケート選手。アイスダンスで全日本フィギュアスケート選手権大会で優勝され、世界フィギュアスケート選手権大会に日本代表として出場された経歴の持ち主です。
今回は、自身のプロフィールや経験を交え、吉備さんから見る日本のフィギュアスケートが強くなった理由について、お話しいただきました。

スケートとの出会い、シングルからアイスダンスへの転向

吉備カヨさん

父親が北海道出身ということもあり、吉備さんがスケートを始めたのは7歳の頃。
最初に憧れたのは、なんとアイスホッケー。氷上で戦うホッケーに興味を抱いたそうですが、当時ホッケーは男性の競技。やむなく始めたフィギュアがスケートとの出会いでした。
フィギュアスケートには、シングル、アイスダンス、ペアの3種類の競技があります。
吉備さんは、シングル競技で高校時代はインターハイ、国体に出場されました。
高校生になった頃、所属先である品川プリンスのコーチにこんなことを言われます。
「君はJAPANのジャンパーを着たいか?それとも着たくないか。」
「着たいです!」と答えた吉備さんは、「JAPANのジャンパーを着たければアイスダンスに転向しなさい」というコーチの助言に従い、アイスダンスに転向されました。
ここから吉備さんのスケート人生は、JAPANのジャンパーへと向かって動きます。

アイスダンスのスタート、全日本での優勝、そして世界へ

アイスダンス競技はパートナー探しが難しいそうですが、コーチの紹介で経験豊富なパートナーと出会います。
そして、全日本ジュニアフィギュアスケート選手権大会で優勝。全日本フィギュアスケート選手権大会で6位となりました。
前途洋々と思った矢先、パートナーからカップル解消の申し出…。理由は「新しいパートナーが見つかったから」だったそうです。

新たなパートナーを探すも、なかなかピッタリの相手が見つからなかった吉備さん。
引退まで組むこととなるパートナーが見つかったのは、それから4年後のことだったそうです。
1989年、7歳年下のパートナーと全日本にカムバック。表彰台へ上がるも3位が続きましたが、1993年ついに優勝を果たし、同年の世界フィギュアスケート選手権大会へ日本代表として出場。念願のJAPANのジャンパーに袖を通すことができたのです。
そして帰国後、引退されました。

日本のフィギュアスケート史

フィギュアスケートは、1877年に札幌農学校のアメリカ人教師が伝え始め、河久保子朗氏がスケート誌を翻訳、愛好家が増えたそうです。1924年第一回冬季五輪フランス・シャモニー大会で正式種目となり、1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に日本から稲田悦子がわずか12歳で出場。
さらに1947年、旧満州国からの引揚者数名が普及を開始。場所が名古屋であったことが、今でも名古屋でフィギュアが盛んであることの背景にあるようです。
1956年になると、堤義明氏が当時22歳の若さで初めてスケートリンクを保有。フィギュア界に寄与した堤氏は、フィギュア界にとっての恩人だそうです。


優秀な選手と失敗から得た教訓

1960年代に活躍した選手は、現在コーチとして荒川静香、浅田真央らを育てた佐藤信夫、八木沼純子を育てた福原美和、そして佐藤信夫コーチ婦人となった大川久美子(現 佐藤久美子)が挙げられます。
1970年代は、全日本で5連覇、1977年の世界フィギュアスケート選手権で銅メダルを獲得し、現在は解説者としてTVでも目にする佐野稔や、渡部絵美。
そして1980年現れたのが天才少女 伊藤みどりです。
伊藤みどりは11歳で全日本ジュニア選手権に優勝、同年のNHK杯に規定年齢に達していないためエキシビションの形で特別出場し、国内外に知れ渡るようになりました。
当時の動画を見ましたが、今見てもこれ以上の選手はいないだろうと思うほどの演技です。

その後、素晴らしいジャンプと演技でフリー1位を獲得する伊藤みどりでしたが、苦手とされた当時の規定演技「コンパル」。氷上に円をいかに正確に、綺麗に描くかを競うものでした。
1988年にオリンピックに初出場5位、1989年には世界選手権で優勝、トリプルアクセルを初めて成功させます。
1990年コンパルが廃止となり、金メダルを期待された1992年のアルベールビルオリンピックでまさかの銀。理由は直前練習でトリプルアクセルが飛べなくなり、安全策で変更したトリプルルッツの失敗(転倒)でした。プレッシャーによるものだったと言われているそうです。

この敗因から教訓を得た日本スケート連盟は、1998年自国開催の長野オリンピックに向け、野辺山新人発掘合宿という強化策を始めます。
選手の早期発掘と育成、ライバルを知ること、国内大会の開催倍増、経済的支援、スケート連盟とコーチ間の信頼関係の育成、わかりやすいキャリアパスの構築などが、現在の日本フィギュアの強化につながったようです。
野辺山合宿で見いだされたのが、荒川静香、安藤美姫、浅田真央ら、世界で活躍した選手でした。有名選手の存在で、スケート人口が増加し、日本スケート界の裾野が広がったというわけです。
これが日本のフィギュアが強くなった大きな理由と、吉備さんは考えているようです。

貴重な経験とキャリアへのつながり

吉備さんが実際に使用されていたスケート靴をお持ちいただきました。
とても固くて重く、これを履いてあんなジャンプやステップを踏むのかと驚きました。
ケガと戦いながら競技を続けたり、ケガがもとで引退したりする選手が多いのも納得です。


※写真左:シングル用、写真右:アイスダンス用、写真中:刃の比較
スケート靴

海外遠征に行っても、ホテルとスケートリンクとの往復だけで、一切観光をしたことがないとおっしゃる吉備さん。
天性の才能はもちろんですが、華やかな演技の裏で過酷なトレーニングや練習を積まれたからこそ、その手に栄光を掴み取ることができたのではないでしょうか。 現在、営まれている人材サービス業にはきっと自身が体験された様々なことが反映され、また社外でも幅広く活躍され、輝き続けられる理由がそこにあるのだと思いました。



懇親会の様子

質疑応答では、「世界大会へ出場する費用は誰が負担するのか」「吉備さんに解消を申し出たパートナーはその後どうしたのか」という質問が飛び出しました。
世界大会への費用は国費だそうです。「日の丸を背負う」にはそういうことも含まれているのですね。
また、解消を申し出たパートナーは、吉備さんがカムバックした全日本選手権で、あっさりと抜いたのだそうです。吉備さんには既にその先の目標にあったようです。



懇親会の様子

今回も初参加の方を3名お迎えしました。
懇親会にはほぼ全員が参加し、近況報告や仕事の話などで盛り上がりました。
実のある時間はあっという間。名残惜しさもありつつ、お開きとなりました。



受講者の声

   
  • スポーツの中でもっとも芸術的!と思っているフィギュアスケートの生のお話しを伺えてよかったです。成功の陰で支える人々の苦労がわかりました。どの世界も同じですね。
  • 全く知らない分野のお話しでしたが、パワーポイントや動画、実際スケート靴などで大変わかりやすかったです。スケート連盟の成功は、個人のキャリアアップや一般企業にも参考になると思いますので、もっといろいろな人にも聞かせたいと思いました。
  • 強いチーム作りには、しっかりした基盤が必要なのだと改めて思いました。

(アンケートより抜粋)

※講師の方の所属及び役職は、開催当時のものです。(敬称略)

 

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